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哲学カフェは、その場に集まった人同士があるテーマについて自由に語り合うワークショップです。

今回のテーマは「まごころこめました」です。

詳しい情報は以下の通りです。

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場所:MOONLIGHT BOOKSTORE (JR西千葉駅最寄り)
日時:11月09日(土)18:00-20:00
定員:12名
参加費:学生500円、一般1000円
ご予約は左記応募フォームより

(スマホでご覧の場合は下にあります)

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「はい、これプレゼント!!」

「今日ね、おべんとう、つくってきたんだー」

 

 誰かに何かをあげる。誰かから何かをもらう。こうした経験は多くの人にあると思います。誰かに何かをあげるとき、何かをしてあげるとき、「こころをこめて」それをしているという人も多いかと思います。もちろん、「こころなんてこめてないよ」というのでも構いません。ただ、どちらにせよ、そうした時の「こころ」というのはなんなのでしょうか? 「こころ」をこめれば、あげるプレゼント・もらうプレゼントに変化があるのでしょうか? 例えば、よりよいものになる、とか。反対に、「こころ」をこめなければ、あげるプレゼント・もらうプレゼントに変化があるのでしょうか? 例えば、よりわるいものになる、とか。はたまた、誰かにごはんをつくってあげるとき、「こころ」をこめれば、ごはんがおいしくなって、「こころ」をこめなければ、ごはんがまずくなる、とかがあるのでしょうか? 

 

 鮨職人がいるとして、そのお店はグルメ本で星三つの満点をもらっているとしましょう。三つ星というのが味だけの評価だとすれば、その職人さんは「こころ」をこめて鮨を握ったから、三つ星を取れたのでしょうか。それとも、別に「こころ」をこめずに鮨を握っても三つ星を取ることができたのでしょうか。もしも職人さんが「こころ」をこめたものと「こころ」をこめていないものを握れるのだとしたら、それらの区別を食べる側の私たちは気づくでしょうか? もしもその職人さんの所作を完全にコピーできるロボットがいたら(もちろん体温などの条件も)、職人さんが「こころ」をこめて握った鮨とロボットが握った鮨の区別を食べる側の私たちは気づくでしょうか?(ロボットは「こころ」をこめられるのでしょうか?)

 

 このように、ここには様々な問いがあふれています。「こころをこめる」の「こころ」って何? 「こころをこめる」の「こめる」って何? こういったそもそもの表現自体が謎であふれています。今回はこうした問いについてみなさんと考えられたらなと思っています。気になる方、他の人のお話しを聞いてみたい方、自分の考えを話してみたい方、ぜひ西千葉哲学カフェにいらしてみませんか? みなさんにお会いできるのを楽しみにしております。

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